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空手の歴史について|源流は中国拳法だった?

 2017/06/15 空手の歴史  

空手の歴史については諸説があり、どのようにして生まれたのか、確たる資料はありません。

ここでは、少ない資料を読み解き、空手がどのようにして生まれたのか、空手の歴史についてわかりやすくまとめてみました。

空手の歴史

空手の源流は中国拳法にあります。

琉球王国に伝わった中国拳法が、琉球の土地に根付いて変化し、「手(てぃー)」と呼ばれる武術になりました。

「手(てぃー)」は琉球各地に伝わり、それぞれの地域名を冠した

  • 首里手(しゅりて)
  • 那覇手(なはて)
  • 泊手(とまりて)

の3つに分かれます。明治の中頃のことと推定されています。

ひとつの武術が複数の流派に分かれるというのは、漫画で例えるなら、北斗の拳で、南斗聖拳の流派に水鳥拳や鳳凰拳があるような感じなんでしょうか。

このうち、首里手が糸洲安恒(イトスアンコウ)という人物によって、「唐手」としてまとめられ、それが今の「空手」へと発展していったのです。

空手の源流は中国拳法

空手は沖縄が発祥ですが、その源流は中国拳法にあります。

それは空手の型の名前が中国名であることからわかります。

⇒ 空手の型の名前一覧

首里手から唐手へ

首里手は、中国拳法が琉球化されて「手(てぃー)」となったもののうち、首里地方で発展したものです。

この首里手を確立した人物が松村宗昆(マツムラソウコン)だと言われています。

松村宗昆は、1809年、琉球王国の城下町首里の山川村で生まれました。

子供のころから武芸に秀でていたようです。17歳のときに、中国帰りの佐久川寛加という人物の門下生となり、中国拳法を習っていました。

武に優れていただけでなく、琉球王国の官吏登用試験に20歳で合格する秀才だったともいわれています。

官吏に登用されると、琉球王国の第18代の尚育王、第19代の尚泰王に仕えました。

松村宗昆は士官後に、中国に2回渡り、薩摩にも2回行っています。中国に渡ったときは、中国拳法を修行して、師範代を務めるまでになったと言われています。

また、薩摩では士現流の技を身につけたそうです。

これらの経験をもとに松村宗昆独自の「首里手」の理念と技術が出来上がっていったと考えられます。

こうして発展を遂げた首里手ですが、松村宗昆の弟子に糸洲安恒(イトスアンコウ)という人物がいました。

糸洲安恒は、1831年、首里山川村(現在の那覇市首里山川町)で生まれました。

糸洲は20代の頃に松村宗昆に師事します。

相性が合わなかったのか、一時松村宗昆のもとを離れるのですが、30代で再び松村のもとに戻ります。

琉球王国時代、糸洲は松村と同じように難関の科挙試験に合格し、王府で働いていました。

明治12年(1879年)、廃藩置県が断行され琉球王国(藩)が消滅してからも、沖縄県庁に勤務していたようです。

この廃藩置県が「唐手」を生むことになるのです。

廃藩置県が行われた沖縄県は本土と同じ教育制度を受け入れることになります。

その教育制度の中で、体育の課程として「唐手」が作られたのです。

明治38年(1905年)、糸洲安常は、沖縄県の学務課から委嘱されて、学務課の指導監督を受けながら、首里手の型から7つを選び、さらに糸洲安恒が考えた7つの型を加えて、14の型の枠組みをもとに「唐手」を生み出しました。

中学校の体育ですから、

  • 動作は大きくのびのびと
  • 危険な技は削除、あるいは他の安全な技に改める

という教育目的で導入されています。

つまり「唐手」は武術として生まれたわけではなく、教育目的で生まれたのです。それは糸洲十訓といわれる、糸洲の考えをまとめた文書を見れば明らかです。

⇒ 糸洲十訓の原文と意訳

糸洲十訓の後文には、次のような内容のことが書かれています。

師範学校や中学校で空手の練習を行い、将来師範学校を卒業して各地の小学校で教鞭をとることになったら、その赴任に先だって、十ケ条に述べました空手教育の意図とその効用を、細かく指示し、各地方の小学校でも不正確な点が少しもないように指導させれば、十年以内には、全国的に普及するはずです。このことはわれわれ沖縄県民だけのためでなく、軍人社会においてもきっと何らかの助けになると考え、お目にかけるために筆記致しました。

 

まさに唐手は武術としてではなく、教育を目的として作られたことがわかります。

唐手から空手へ

明治38年に沖縄の中学校で唐手が体育の授業として採用されてから、沖縄では唐手の普及が進みました。

唐手が体育の課程として、全国に広まったのかどうかの資料はありません。

唐手が日本本土へ普及したきっかけは、松濤館流の事実上の開祖とされる富名腰義珍(フナコシギチン)という人物が、大正11年に文部省主催の第1回体育展覧会で演武をしたことと言われています。

ただ、最初に日本本土に唐手を紹介したのは、富名腰による大正11年より早い明治41年に京都の武徳殿で徳田安貞という人物だったという説もあります。

いずれにしても、富名腰義珍によって、唐手は急速に普及しました。

大正11年には、「琉球拳法唐手」を発行し、型の演武要領を記載しています。

ただし、富名腰義珍の広めた唐手と、糸洲安恒が創始した唐手とは別物であったようです。

なぜなら、「琉球拳法唐手」で紹介されている型は、糸洲が作った14の型にはないものがあるからです。

むしろ首里手、泊手に近いものだったようです。

このことからも、富名腰義珍は、糸洲が創始した「唐手」に対する理解が浅かったのではないかと考えられます。

富名腰義珍が伝えたのは、もともとの目的であった教育唐手ではなく、本来の武術の要素が強いものでした。

しかし、富名腰義珍が伝えた唐手は、大正13年には慶應義塾大学、大正14年には東京帝国大学(現在の東京大学)で唐手部ができるまでになります。

唐手が全国に普及する中で、昭和3年、慶應義塾大学の唐手研究会から「唐」という文字は日本人にとって違和感があるから、「唐手」を「空手」に改めたほうがよいという議論が起こります。

そのような議論が起こって数年後、昭和11年に琉球新報社主催で唐手座談会が開かれました。

出席者は、唐手道の大家数名、教師や軍人も参加していたようです。

この座談会の場で満場一致で「唐手」を「空手」に改称することが承認されました。

それ以降、少しずつ「空手」という名称が広がっていったのだと思われます。

まとめ

以上のように、中国拳法が琉球で唐手となり、それが全国に伝わる過程で「空手」となりました。

中国を源流とする空手ですが、今では完全に日本の文化として発展しています。

日本から世界に広がり、今や空手の競技人口は世界中で6,500万人程度いるのではないかと推計されています。

柔道もそうですが、日本発の武道が世界に広がっていくというのは嬉しいものですね。

2020年の東京オリンピックでは、ぜひ日本人の金メダルを期待したいところです。

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